佐世保女子高生殺害事件での「親の責任論」に対して思うこと。。

 先月起きた、佐世保の女子高生殺人事件で、同じ年の子を持つ親としてちょっと思ったことを書きたい。

まず、被害者の女子高生のご冥福を祈りたい。同時に、被害者のご両親に対しては、同じ年の子を持つ親として、現在の心境を思うと、非常に辛い。。

で、辛いと同時に、今回の事件は、同じ年の子が居る親としも非常に気になることが多いんだけど、何が気になったのかというと「親の責任論」について。

報道内容については、様々でており、加害者の情報や、親の情報も少しずつ表に出てくると思うけど、現時点で犯人とされる少女が猟奇的殺人事件を起こし、その責任は誰にあるのか?という部分で「親の責任だろう」という議論が多かったので、少し考えさせられた。

最初に個人的な立場としては、未成年の犯罪の責任は、どこまでいっても親が負う責任だと自分自身は思っているし、親の教育は大切だと思っている。ただ、本質的な問題として、親や、子が受けた教育が正しければ、こういう事件が起きないかと言えば、それは全く別問題だと思う。

結局、こういった未成年の猟奇的殺人事件に対しての、一般的な一定の結論というか、腑に落ちた見解はなく、自身もモヤモヤした感じで、現在、親になり、事件を起こした子と同じ年の子を育て、ちょっと他人ごとではない感じでいる。。

で、それを踏まえて色々見聞きすると、
親の責任論者の方にも、ツッコむ論点が色々あって、
・親の教育の問題
・育った環境の問題
・学校や教育関係者など間接的な関係者の問題
と、この辺が多い。

親の教育問題については、多くは報道されてないので、まったくの憶測でしか語ってはいないだろうけど、まぁ、普通に考えると、それがあるかもしれないレベルが今の議論の状況。

育った環境の問題も、親の教育の問題と同様に、親に離婚歴があるとか、父が弁護士で、母が教育委員で、加害者の子も事件は数々起こしているが、勉強や運動的には優秀で云々。。

学校や教育関係者などの間接的な関係者問題も、教育委員会の隠蔽問題や、親が元教育委員会だったとか、、相談所や病院の対応云々。。

まぁ、どれも、いつもの議論なので、タイトルの親の責任論に絞って話をしたいんだけど、

まず、仮に親の教育に問題があり、劣悪な生活環境で育った場合でも、そういう事件にならないケースは沢山ある。それは皆が理解している。今回の少女の例でも、現時点での報道を見る限り、多少は家庭に問題はあったかもしれないけれど、劣悪な環境かと言えばそうじゃないとも見える。そもそも酷い環境かどうかは当人の主観的な部分も影響するので、はた目に、劣悪だと思っても人間的に生きる人は居るし、そこまで劣悪じゃなくても、精神的疾患をきたしたり、それが影響して事件を起こす場合もある。だから、この議論も最終的には全く不毛だと思う。ヤンキーを更生させるのとはワケが違うでしょう。。

もっと言うと、仮に映画「ニキータ」じゃないけど、幼少から親がなく、殺人請負人に人殺しの手ほどきを受けるような、ものすごい猟奇的な教育を受けたとしても、多分、猟奇的殺人者になるかどうかは全くわからない。。(ニキータはもっと人情的な話ではあるので例として悪いか。。)

こうやって考えていくと、僕は、親が子に教育するのは当然ではあるけれども、自分がもし、今回の事件の加害者の親だとしたら、被害者には当然、親として一緒に償っていき、自身であって自身でない子供と運命を共にするしか受け止めようがなく、自身の教育の問題を振り返るかと言えば、そういう心境では到底ないだろうし、そういう問題ではないと思えてしょうがない。。

さらに、教育云々の問題が影響しない場合もあると自身で認識しいる親として、どう子供と接して、どう子供を見つめていくのか? そう考えると、物凄く難しく、できる教育は全て行った上で、最終的には信じる以外には僕自身としては何もできないと思った。。

今回の加害者の親は、子供を精神病院に連れて行き即日入院を要請したらしい。教育問題や諸所の問題はさておき、これはある意味冷静に判断して、親としての責任を果たそうとする意思はあったんだと感じたりもしたが、(もちろん、結果として殺人を犯してしまったことの言い分にはならないが)今回は、それなりの少女の特異性を実感できる事件が前にあったので、そういう行動に出れた。では、自分の場合、そういう兆候があればどうか?また、なかったらどうか? 子供の心の動きを敏感に感じ、そういう処置を考えただろうか? また、その兆候が小さかったらどうか?

以前、同性愛者についての議論の際に、インド人の人が、「自分の子が同性愛者だったら子供を自ら殺す」と発言していたのを見た。インドやイスラムでは、宗教上、人殺しと同じくらい同性愛に対しては罪深いことと認識されていることを知り、違う宗教感では意味不明だけれども、宗教上のこととは言え、親の心理としては、人として逸脱してしまった子供(繰り返すが僕は同性愛者が人として逸脱しているとも思わないし、逸脱していると見るイスラムやインドの宗教観も否定はしない。ただ、そういう宗教観の宗教には入らない)を持ったら、分からないでもないと、今では附に落ちる自分が居たりする。。

じゃ、猟奇的な兆候を自分の子供に感じたら、親として子供を殺してしまうのか? または、親として精神病院に強制的にぶち込めるのか? これまた、自身に置き換えると非常に難しい。。というより分からない。。

こうやって、どんどん考えていくと、、。
加害者やその親を養護する意味ではなく、
今回の事件は当事者でどこまで、どう対処できた問題なんだろうか?
自分の子に置き換えた場合はどうだろうか?
また、その加害者の親と友達だった場合は、どう対処するべきなのか?
子供の友達にそういう子がいたらどう対処できるのか?
それは、自分には関係ないことなのか?
しょうがないことなのか?

とにかく、やっぱり、今回の事件のような、現代の概念では想像できない問題に対しては、分からないなりに、現時点での見解を自分自身、認識しておくべきだと、今回は改めて思った。。

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